今回取り上げるのは、5月2日(土)より『仮設の映画館』内で公開が始まった想田和弘監督のドキュメンタリー作品『精神0』。
僕自身、そこまでドキュメンタリー映画を観てる方ではないのですが、想田作品は2013年の『選挙2』以降ほぼ全ての作品を劇場で観続けており、過去作もDVDなどでチェックしている程度には好きな映画作家です。
しかし、想田監督作品の最大の特徴である “観察映画” の手法(後述します)や精神科医という職業を取り上げた内容であることから、なかなかドキュメンタリー初心者の方には入りづらい作品でもあると思いますので、このレビューで一人でも多くの方に興味を持って貰えるように感想を書き連ねていきたいと思います(長くなってしまったので、読むのが面倒な人は目次から『感想』に飛んでください)。
それではいってみましょー♪
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概要
「こころの病」とともに生きる人々がおりなす悲喜こもごもを鮮烈に描いた『精神』から10年—
映画作家・想田和弘が、精神科医・山本昌知に再びカメラを向けたベルリン国際映画祭をはじめ世界で絶賛された『精神』(08年)の主人公の一人である山本昌知医師が、82歳にして突然「引退」することになった。山本のモットーは「病気ではなく人を看る」「本人の話に耳を傾ける」「人薬(ひとぐすり)」。様々な生きにくさを抱えた人々が孤独を感じることなく地域で暮らしていける方法を長年模索し続けてきた。彼を慕い、「生命線」のようにして生きてきた患者たちは戸惑いを隠せない。引退した山本を待っていたのは妻・芳子さんと二人の新しい生活だった…。精神医療に捧げた人生のその後を、深い慈しみと尊敬の念をもって描き出す。
病とは、老いとは、仕事とは、夫婦とは、
公式HPより引用
そして愛とは何か?
スタッフ
監督・制作・撮影・編集 | 想田和弘 |
制作 | 柏木規与子 |
出演 | 山本昌知・山本芳子 |
配給 | 東風 |
上映時間 | 128分 |
ドキュメンタリー作品と観察映画の違いとは……?
まず初めに、ドキュメンタリーというジャンルについて少しだけ説明をしたいと思います。
映像制作などに詳しくない方からすると意外に思うかもしれませんが、通常、ドキュメンタリー作品には台本が存在します。
例えば、テレビ局が怪我からの復帰に挑むストイックなスポーツ選手Aさんに密着したドキュメンタリー番組を制作するとして、一番最初にクリアしなければならないのがお金の問題です。
そこでディレクターたちはスポンサーから予算を獲得するために、入念なリサーチのもと企画書(テーマや、狙いなど)を書き、晴れて企画が通ったら具体的にどう撮影していくかをクルー全体の『指針』として構成台本に落とし込んでいきます。
「今回はAさんが怪我を乗り越えて復帰する姿を撮影します。その為に、リハビリの様子から始まって、自宅と練習場と大会の会場でカメラを回して、こことここでインタビューをして、ここでナレーション入れて、ここで盛り上げる為にカッコイイBGM入れて、このカットで終わります!」みたいなことを全て決めてから撮影に臨むんです。
もちろん、密着の中で偶然撮れたAさんのストイックじゃない部分は全てカット。
Aさんが「ぶっちゃけ大した怪我じゃなかったんすよねー」なんて衝撃のカミングアウトをしても聞かなかったことにします。
何故なら台本(撮りたい映像)と違うから。
逆に言ってしまえば、撮影した膨大な素材を使って、
強気な発言ばかりを繋げれば『自信家なAさん』
弱気な発言ばかりを繋げれば『繊細なAさん』
文句ばっかり言ってる場面を繋げれば『性格の悪いAさん』
と、作り手たちの意志によって観ている人の印象を180度違ったものに操作することも可能になります。
つまり、『ドキュメンタリー作品 = リアルを描き出した映像』ではなく、その中には『作り手が表現したいこと』や『作為的な見せ方』などが確実に介在しており、観客はその作品がある程度バイアスの掛かった状態であることを理解する必要があるのです。
一方、想田監督の作品は一般的なドキュメンタリー作品とは作りが少し異なります。
ナレーションやBGMなどを用いないドキュメンタリー作家・フレディック・ワイズマン(2016年に第89回アカデミー賞で名誉賞を受賞してる名匠)に感銘を受けた想田監督は2007年の『選挙』から “観察映画” という独自の手法を編み出して作品を撮り続けてきました。
“観察映画”について詳しく知りたい方は想田監督の公式ホームページに『観察映画の十戒』というページがあるので参照して欲しいのですが(『精神0』の公式HPにも載ってます)、
簡単に言うと、
・被写体のことを事前にリサーチしない・打ち合わせしない
・台本は書かず、落としどころも決めない
・行き当たりばったりでとにかくカメラを回す
・BGMやテロップ、ナレーションを使わない
といったルールを独自に設けており、この手法で映画を撮ることによって、監督自身の主観や先入観、意図を極力排除していく狙いがあります。
それは裏を返せば、監督から『答え』はおろか『テーマ』すら提示されないことを意味するので、観客は集中して『目を向け、耳を傾ける』(すなわち観察する)ことを半ば強制的に求められ、鑑賞後はとてつもない疲労感に襲われます。
しかし、そうでなければ辿り着けない『答え』があることも事実で、その『自分で観察して見付けた気付き』こそが想田監督作品を観る醍醐味であり、世界的な評価を受けたり、根強いファンがいることの理由だったりします。
感想(ネタバレあり)
過去作『精神』について
前置きが長くなりましたが、ここからが『精神0』の感想です。
……と言っても、今作は2008年に公開された『精神』の続きでもありますので、簡単に前作についても触れたいと思います。
前作『精神』は岡山にある精神科クリニック「こらーる岡山」が舞台でした。
そこで長年、精神科医療に携わる医師の山本昌知先生という方がいて、心の病を患った患者さんたちが次々と診察を受けにやってきます。
メインで描かれるのは山本先生ではなく病院に通う患者さんたち。
患者さんたちの独白にも似たインタビューから「病気になった経緯」や「現状」、「不安」、「悩み」、「苦しみ」をこれでもかと炙り出してきます。
しかし、映画を観続けていると観客(少なくとも僕は)はある気持ちを抱きます。
「あれ? 健常者と精神疾患者の境界線って何だろう?」と。
前述したように想田監督の “観察映画” にはテロップもナレーションも出てこないので、誰が患者で誰が健常者なのかは会話の内容や仕草で判断するしかなく、観客の印象に全て委ねられることになるんですね。
もちろん、舞台は診療所がメインですから、明確に患者さんと分かる人たちも数多く登場します。
おびただしいリストカットの跡やオーバードーズの告白は当たり前。「私、赤ちゃん殺しちゃったんですよ」とサラリと告白する女性が出てきたと思ったら、エンドロールでは、映画に出てきた3名の患者さんが(撮影から映画公開の間に)亡くなっているという衝撃的な事実が示されます。
それでも、想田監督は障害のあるなしに関わらず「目の前にいるひとりの人間」として淡々と被写体にカメラを向けているので、そこに目を背けたくなるような恐ろしさはなく、「観る人に強烈な何かを訴えてくるがとても優しい一本」に仕上がっていました。
『精神0』が描こうとしたものは何か
『精神』では病院に通う患者さんを中心に描いていましたが、10年後に作られた今作『精神0』は山本先生がメインとなっています。
その理由について想田監督は公式ホームページでこのように語っています。
『精神』(観察映画第2弾、2008年)を撮り始めたとき、僕の興味は精神科診療所「こらーる岡山」に通う患者さんたちに向いていて、診察室で彼らの話を眠そうな顔で聞いている老医師には、特別な注意を払っていなかった。しかし彼が患者さんたちから神か仏のように慕われ、絶大な信頼を得ていることを知るにつれ、この山本昌知という精神科医はいったい何者なのだろうと思い始めた。
公式HPより引用
~(中略)~
2018年、山本医師が3月一杯で、82歳でついに引退するとの報に接した。彼のドキュメンタリーを撮るならば、今すぐにカメラを回さなくてはならない。僕は『港町』の宣伝キャンペーンの合間をぬって、新幹線で岡山へ通った。いつものことだが、どんな作品になるのか、かいもく見当もつかなかった。
これは映画の中では詳しく語られてなかったと思うのですが、『精神』の舞台となっていた「こらーる岡山」は2016年に閉院し、山本先生はそこを引き継いだ「大和診療所」で非常勤医師として働いていました。
そして、山本先生の引退を知った想田監督が「これはカメラに収めなければならない」と思い立って岡山へと飛んだのが、この映画が撮られるキッカケとなっています。
では、一体なぜ彼は多くの患者を抱えながら引退を決意したのか。
実際に作品の中で『引退の理由』は語られないのですが(監督もあえて確認しなかったらしいです)、映画を観た観客ならば、それが先生自身の老いから来た決断であることは容易に想像ができます。
数メートル歩くだけでも息が切れ、全ての動きに相当な時間を要する。
棚から食器を取り出すだけでも悪戦苦闘し、前かがみになる度に腰の痛みと戦う。
そう。医師として多くの人間を救ってきた彼もまたひとりの人間なのです。
そして、長年、彼の仕事を理解し、ひたむきに支え続けてきた妻・芳子さんもまた認知症になっており、誰かのサポートがなければ生活がままならない状態になっていました。
山本先生は優秀な医師です。
自分の置かれている状況も冷静に理解しているのだと思います。
だからいくら患者さんたちから
「先生が辞めたら私(僕)はどうすればいいんですか?」
「最後まで面倒を見て欲しい」
と嘆願されても、「自分がいなくても大丈夫」「引き継ぐ先生も良い人だから」と優しい口調で諭すだけで思いとどまる素振りは微塵も見せません。
精神科医としての仕事が人生そのものだった山本先生にとって、医療の現場から退くことはある種の『死』を意味します。
また、長年、山本先生とともに治療に励んできた患者さんからしてみても、それは『今生の別れ』のようなものであり、とてつもない不安や恐怖を味わうことになります。
であるからこそ、観客はその引退という先生の決断に重大さを感じざるを得ず、
最後に彼が約70年連れ添ってきた妻と「どのような人生」を歩むのか
ということに注目をしながら、自分の中にある『答え』を探していくことになります。
「0(ゼロ)に身を置く日を作りなさい」
作品の中で山本先生はある患者さんへのアドバイスとしてそんな言葉を残すのですが、これは、『「あれがやりたい」「これをしなければならない」という気持ちを一旦忘れ、週に1日ぐらいは何も考えず、ただ生きていることに感謝する日を作りましょう』という意味が込められています。
そして、恐らくこれは山本先生自身が考え、日頃から実践していることでもあり、だから監督は、『0(ゼロ)』という数字をそのまま作品のタイトルにも使いました。
「欲を捨て、ただ感謝をする」
現代で暮らしている私たちが辿り着くにはなかなか難しい境地ではありますが、コロナ禍で不平不満が渦巻く今の日本社会に向けた痛烈なメッセージになっており、山本先生の佇まいから我々が学べることは多くあると感じました。
監督もインタビューで「期せずして“純愛映画”になった」と語っていますが、最後に山本夫妻が手を取り合って歩く姿を観た時に何を感じるのか。
そこにこの映画を観る意義が全て詰まっているように思います。
まとめ
前作『精神』では患者さんの極めてミクロな部分(パーソナルな部分)を掘り下げることで、結果的にマクロな部分(社会が抱える問題、不条理)を捉えていましたが、
今回の『精神0』では、山本先生のパーソナルな部分に焦点を当てて、最終的に更に人間のコアな部分にクローズアップしていきました。
正直言って、個人的には『想田作品と配信の相性がすこぶる悪い』ことと『カメラを回す監督が患者や先生にガンガン話し掛けられるので、観察映画の定義が揺らいでるのでは?』という点が引っ掛かったのも事実です。
ですが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う自粛によって疲れ切った今の時期にピッタリの一本となっていますので、「そろそろ派手な映画を観るのも飽きてきたなぁ」という方がいらっしゃったら、是非、GW中に『仮設の映画館』を訪れてください。
きっとこれまで味わった事のない映画体験ができるはずです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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