今回取り上げるのは、黒沢清監督の『スパイの妻〈劇場版〉』。
本作は、2020年6月にNHK BS8Kで放送されたテレビドラマをスクリーンサイズや色調を新たに再編集した劇場版で、主演となるスパイの妻を蒼井優が、その夫役を高橋一生が演じています(2人は『ロマンスドール』(タナダユキ監督)でも夫婦役で共演している)。
それ以外の出演者は、黒沢作品の常連になりつつある東出昌大や笹野高史、期待の若手俳優・恒松祐里、坂東龍汰らとなっており、ドラマが元になっているせいなのか、予算の関係なのかは分かりませんが、主要登場人物はかなり少なくなっています。
また、本作は、黒沢清に加え、彼の教え子である濱口竜介と野原位の3人で脚本を担当していたり、予算が限られる中、NHK制作ということで大河ドラマ『いだてん』のセットをそのまま使っていたり、椎名林檎率いるバンド「東京事変」の浮雲ことミュージシャンの長岡亮介が音楽を担当したことでも話題になっています。
しかし、本作最大の注目ポイントは何と言っても黒沢監督が第77回ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞したことでしょう。
これは、『座頭市』の北野武監督以来、日本人として17年ぶりの快挙で、否が応でも作品の出来に期待してしまいます。
果たして、世界を唸らせた作品は日本人の目にどう映るのか……。
それではいってみましょー♪
映画『スパイの妻〈劇場版〉』公式HPはこちら
あらすじ
一九四〇年。少しずつ、戦争の足音が日本に近づいてきた頃。聡子(蒼井優)は貿易会社を営む福原優作(高橋一生)とともに、神戸で瀟洒な洋館で暮らしていた。
身の回りの世話をするのは駒子(恒松祐里)と執事の金村(みのすけ)。
愛する夫とともに生きる、何不自由ない満ち足りた生活。ある日、優作は物資を求めて満州へ渡航する。
満州では野崎医師(笹野高史)から依頼された薬品も入手する予定だった。そのために赴いた先で偶然、衝撃的な国家機密を目にしてしまった優作と福原物産で働く優作の甥・竹下文雄(坂東龍汰)。二人は現地で得た証拠と共にその事実を世界に知らしめる準備を秘密裏に進めていた。一方で、何も知らない聡子は、幼馴染でもある神戸憲兵分隊本部の分隊長・津森泰治(東出昌大)に呼び出される。
「優作さんが満州から連れ帰ってきた草壁弘子(玄理)という女性が先日亡くなりました。ご存知ですか?」今まで通りの穏やかで幸福な生活が崩れていく不安。
映画『スパイの妻〈劇場版〉』公式HPより
存在すら知らない女をめぐって渦巻く嫉妬。
優作が隠していることとは――?
聡子はある決意を胸に、行動に出る……。
スタッフ
監督 | 黒沢清 |
脚本 | 濱口竜介 野原位 黒沢清 |
音楽 | 長岡亮介 |
エグゼクティブ プロデューサー | 篠原圭 土橋圭介 澤田隆司 岡本英之 高田聡 久保田修 |
プロデューサー | 山本晃久 |
アソシエイト プロデューサー | 京田光広 山口永 |
ライン プロデューサー | 山本礼二 |
技術 | 加藤貴成 |
撮影 | 佐々木達之介 |
照明 | 木村中哉 |
録音 | 吉野桂太 |
美術 | 安宅紀史 |
編集 | 李英美 |
制作著作 | NHK , NHKエンタープライズ Incline , C&Iエンタテインメント |
制作プロダクション | C&Iエンタテインメント |
配給 | ビターズ・エンド |
キャスト
福原聡子 | 蒼井優 |
福原優作 | 髙橋一生 |
津森泰治 | 東出昌大 |
竹下文雄 | 坂東龍汰 |
駒子 | 恒松祐里 |
金村 | みのすけ |
草壁弘子 | 玄理 |
野崎医師 | 笹野高史 |
感想(ネタバレあり)
……という訳で、さっそくレビューを始めていきたいと思います。
黒沢清監督が銀獅子賞を受賞したニュースを見た時、僕は「ようやく受賞したか」という感想を抱きました。と言うのも、黒沢清監督はもともと海外での評価が高く、1997年の『CURE キュア』を発表した時点で世界中の映画ファンたちにその名が知れ渡っていますし、2000年の『回路』では、第54回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞しています。また、2008年の『トウキョウソナタ』や2015年の『岸辺の旅』でも海外の映画賞をガンガン受賞してきた経緯があるわけです。
普段あまり映画を観ない方は意外に思うかもしれませんが、世界の映画監督たちに「影響の受けた日本の監督は?」と聞いた際に「クロサワだよ。でも、アキラじゃなくて、キヨシの方のね」という答えが返ってくるぐらい今では日本を代表する監督であり、彼の熱狂的な信者が“キヨシスト”なんて呼ばれ方をしていたりします。
そして、2005年には、東京芸術大学映像研究科の教授にも就任し、映画監督と並行しながら後進を育てることを始めるわけですが、本作『スパイの妻』のプロットを生み出したのは、監督ではなく大学の教え子でもあった濱口竜介と野原位でした。しかも、インタビューを読むと、2人の方から「こういう企画があるんですけど、一緒にやりませんか?」と監督に声を掛けたようで、これだけでも黒沢清監督が弟子たち(教え子)に慕われ、尊敬されていることが分かります。
ただ、制作がNHKであることと、既にプロとして独り立ちしている2人が脚本に参加していることもあって、本作に黒沢清っぽさが足りないと感じた人もいるかもしれません。それでも、監督お得意のホラー表現も垣間見えましたし、良質なエンターテイメント作品に仕上がっていたので、銀獅子賞を獲ったのは納得出来ますし、今まで黒沢清監督の作品を観たことがない人に薦めるには最適の一本になっていると思います。
「お見事」な主要キャストの演技
まず本題に入る前に、本作のタイトルにもある「スパイとは何ぞや」というところから始めたいと思います。
スパイが出てくる映画だと、多くの人が『007』シリーズや『ミッション・インポッシブル』、『キングスマン』などのアクション作品を想像すると思いますが、本作は残念ながら、蒼井優が軍隊を相手に銃撃戦を繰り広げたり、高橋一生がスタントなしで空飛ぶ戦闘機にしがみついたりする映画ではありません。
本作は、1940年の太平洋戦争が間近に迫った神戸が舞台で、満州に渡った際に偶然知ってしまった日本の戦争犯罪を公表しようとする正義感の強い福原優作と、そんな夫を献身的に支える聡子の愛情をサスペンスフルに描いた作品です。
そして、冒頭でも書きましたが、本作は2時間の映画として考えた時に、主要登場人物が少ないことが特徴で、例えば、5番手扱いの恒松祐里でさえ、出演シーンは片手で数えられるほどしかありません。勿論、1つの時代を切り取った作品なので、優作の会社や軍隊、町の様子など、エキストラを含め出てくる人間の数は多いのですが、そうした人たちのサブプロットに流れることはほぼ皆無で、基本的には福原夫妻の2人だけにフォーカスを当てており、要所要所に東出昌大や坂東龍汰が登場するといった感じになっています。
つまり、本作『スパイの妻〈劇場版〉』は、蒼井優と高橋一生の演技にどうしても頼らざるを得ない部分があり、2人のうちのどちらかが崩れたら一気にリアリティが崩壊して駄作となる危険性すら孕んでいるわけです。
しかし、そんな不安もどこ吹く風と、冒頭から蒼井優と高橋一生はフルスロットルで、40年代の日本映画を意識したと思われる絶妙な発声と間を取り入れた演技でグイグイと物語を引っ張っていきます。
特に主演の蒼井優に関しては、文句のつけようがないくらい完璧でした。恐らく、小津映画の原節子あたりを参考にしていると思うのですが、彼女が演じた福原聡子は、裕福な家庭で暮らす気品のある妻でありながら、自分の欲求に逆らえない部分があったり、夫に対して強い執着心を見せたりと多面性を持ち合わせた役です。しかも、物語が後半に進むにつれ、表情や話し方がどんどん変化していき、クライマックスで見せたあの表情は今年の映画賞を総ナメにするんじゃないかというほどの迫力がありました。
黒沢監督曰く「これまで嫉妬する女性を描いたことがなかった」とのことですが、それでも、戦争という背景があるので、猟奇的とも言える聡子の言動には十分説得力はありましたし、この複雑で難解な役を日本で演じられるのはもう蒼井優しかいないんじゃないかと思うほどの演技だったと思います。
ちなみに、クライマックスで聡子が最も印象に残る“ある台詞”を言うのですが、監督によると脚本には台詞しか書いてなく(感情を表すト書き等がなかった)、困ってとりあえず蒼井優に丸投げしてみたところ、「やってみまーす」と言って一発で正解を導き出したそうです。ディレクションもなく、一発であのセリフを言えるなんて、お見事としか言いようがないですよね。
次に高橋一生について。
彼が演じた福原優作という人物は、映画が好きな貿易会社の社長という設定で、海外にも取引相手(友人)が多くいるし、自宅や会社で自身が監督した短編映画の上映会などを行っています。しかし、優作の中には『強い信念を持ちながらも何処か空虚さも持ち合わせている』部分があり、その辺りが高橋一生のパーソナリティと絶妙にマッチしていたと思います。
ちなみに監督が(先に決まっていた)蒼井優の相手役は誰がいいだろうと考えていた時、周囲の人たちに「30代後半の男優で、日本映画界で1番うまいのは誰だ?」と聞いたら、口々に高橋一生の名前が出てきたことから彼をキャスティングしたとのことです(多少のリップサービスはあるかもしれませんが……)。
そして、最後に東出昌大。
ご存じの通り、2020年は色々とあって「このまま仕事なくなっちゃうんじゃ……」と心配していた東出君ですが、ここに来て俳優人生のベストアクトかもしれないレベルの演技を見せてくれました。東出昌大と言えば、一部の人からは「棒読み」などと揶揄されることもあるのですが、感情を出さずに淡々と喋る役を演じさせたらピカイチで(『桐島、部活やめるってよ』は傑作だと思ってます)、今回演じた津森泰治も聡子への想いを殺しながら淡々と任務を遂行する憲兵を見事に演じていてハマリ役だと思いました。元モデルだけあって軍服も様になっていましたし、浮世離れした存在感もあるので、恋愛系は当分無理かもしれませんが、これからも悪役のオファーが途切れることはなさそうですね。
「お見事」なエンタメっぷり
次に脚本ついて。
正直言ってしまうと、最初に本作のストーリーを聞いた際、少し不安な思いがありました。そもそも黒沢清監督が時代物を撮るイメージが全然なかったですし、舞台は太平洋戦争直前の日本。そこに諜報活動やら国家の陰謀やらが関わってくるので、歴史に疎い僕は「ついていけるかな?」と思ってしまったからです。
でも、実際に観てみたら、ちゃんと推進力を保ったまま(興味を持続したまま)物語が進んで行きましたし、恐らく、本作を観て何が行われているのか理解できない人はほとんどいないと思えるぐらい、エンターテイメントに徹した作品となっていました。
そこで、まずは本作で起きる大きな出来事を簡単にご紹介します。
①神戸で貿易会社福原物産を営む福原優作が満州に赴いた際、関東軍により中国人を使った人体実験妻の事実を知る。
②妻の聡子ははじめ、優作と一緒に帰国した看護婦の弘子を彼の不貞相手と怪しむが、問い詰めていくうちに「弘子は戦争犯罪の事実を記録していて、自分はそのノートを持ってアメリカに渡り世界に告発するつもり」であることが発覚する。
③しかし、それは売国行為であり自分もスパイの妻となってしまうと心配した聡子は、金庫からノートを盗み出し、憲兵の津森泰治へ差し出してしまう。
④ノートを翻訳していた文雄が逮捕・拷問されるが優作の関与は否定し続ける。
⑤まさかの裏切りに憤る優作であったが、聡子は「津森に渡したのは原本。日本語訳と(満州を映した)フィルムがあるので二人でアメリカに渡ろう」と提案する。
⑥優作と聡子は危険を避けるため別行動でアメリカへ行くことにする。
⑦聡子は優作が手配した貨物船の積み荷の箱に入って渡航しようとするが、出港直前に憲兵隊に踏み込まれ、フイルムとともに拘束される。
⑧取り調べの最中、衝撃の事実が発覚する。
クライマックス以降は実際に映画館で観て欲しいので書きませんでしたが、前述した通り、この作品は登場人物が少ないので『何が起こっているか』が掴みやすいですし、太平洋戦争等の時代背景が分からなくても、『高橋一生が日本軍のヤベェ秘密を知ってしまい、世界に公表しようとしている』ことだけ理解出来れば十分に楽しめる作りとなっています。
また、本作は、小道具の使い方や伏線の張り方が抜群に上手く、例えば、福原優作は自らも監督をするほどの無類の映画好きという設定ですが、その自主映画の撮影で使った金庫が重要な場面で出てきますし(聡子が鍵を開けられる理由となっている)、フィルムの編集能力も最後に効いてきます。更に、ラストの「日本を抜け出し、このフィルムを持って世界に行くんだ!」という優作の行動が、日本以上に海外で評価をされてきた黒沢監督の姿に重なってきて、長らく黒沢作品を観てきたファンからしてみたらグッとなる作りとなっています(ちなみに本作の舞台となった神戸は監督の出身地です)。
ただ、総評にも書きましたが、あまりにエンタメ作品に振り切った作りとなっているので、プロットに若干疑問を持つ部分もありました。
例えば、優作が満州から連れて帰った弘子は、731部隊で働く看護婦という設定でしたが、機密情報を知れる立場であるのにも関わらずあっさり帰国しているように見えたし、殺害される動機も機密漏えいは全く関係なく、「旅館の主人に襲われて~」とかいうよく分からない理由でした。
他にも、聡子が金庫からノートを盗み出し、文雄が犯人であると密告する(津森泰治へ差し出す)シークエンスは、聡子の焦燥感や優作への愛情から来る猟奇性を表現したかったと思うのですが、そもそも聡子がそんなことをしなければ、世界に公表するという最終的な目的は達成しやすくなったわけで、説得力に欠けると思いました。まあ、このシークエンスがないと物語が成立しないので仕方ないと言えば仕方ないんですけどね。
まとめ
いかがだったでしょうか。
本作は、優作が何を考え、聡子が何を信じているのかという『内面』を演技(時には俳優の背中だけ)で捉えなければならないので、難しく感じる人もいるかもしれません。しかし、状況は把握しやすいですし、主演の蒼井優をはじめとするキャスト陣が与えられた役割を完璧にこなしていて非常に見ごたえのある2時間となっています。
また、今回は言及はしませんでしたが、シンプルながら重厚感のある長岡亮介の音楽も素晴らしかったし、衣装や美術も細部まで拘っていてNHKの底力を感じ取ることが出来ました。
『シェイプ・オブ・ウォーター』や『ジョーカー』が金獅子賞を獲っていることからも分かる通り、近年のヴェネチア国際映画祭は芸術性よりも娯楽性の強い映画にスポットライトが当たることが多く、本作『スパイの妻〈劇場版〉』も完全にエンターテイメント作品でしたね。
観る人によっては『実は、優作はアメリカのスパイだった』説もあるようなので、ラストの解釈は人それぞれですが、日本の戦争犯罪に踏み込んだ映画も珍しいですし、サスペンスとしても夫婦のラブストーリーとしても「お見事」な作品なので、ご興味のある方は是非劇場でご覧ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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